昭和49年9月20日 朝の御理解


 御理解第二十節 此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。

 16日の総会の時に、(?)の早川茂子さんがお参りをしてきておりました。総会の事を知って参ってきておったのか知りませんけれども、幼稚園を経営しております。それに、まあ色々な悩み、人間関係様々な事でお参りしてくるのですけれども、今度、幼稚園の園旗というのでしょうかね、学校には校旗が、旗がありますように、教会には教旗がありますように、園旗を作りたい。それであの、八つ波の御紋章は勿体無いけれども、その中に、幼稚園の幼という字を入れて作りたいというお届けがあっておりました。それはいいね、もう誰が見ても金光様のあちらはご信者さんばいねという事が分かる、というわけなんです。その日にあの、ご祈念をして頂きたいというてから、16日に持ってきておりましたから、見事に出来ておりました。
 それから、あの総会に一緒に参りまして、帰りを高橋さんの車に乗せてやるから、便乗させてもろうて、高橋さんから、福岡に着くまでお話を聞いた。だからいくらどんなに熱心に参っても、どんなに例えば拝んでもお参りの例えばどれだけお供えをさせて頂いても自分が中心であったら信心は進まない。進まなかったらお徳は受けん、お徳は受けなかったら本当のおかげにはならないと言う事を繰り返し繰り返し頂いていったという。もう、自動車の中で非常にこの純真なんですけれども、まあ、まだ、金光様の先生が本当にまだよく分かっているとは思われないけれども非常に純真で純粋です。そしてその、金光様の信心をもう、生活の前面に押し立てていこうというのですね。旗でももうむしろ金光様の先生しよっても隠す人ですらありますよね。だからそういう人はおかげを受けにくいです。堂々と金光様のご信心を頂いております。しかもこのような素晴らしい信心ですと言うことが分からなければそれが出来ませんけれどもね、いつまでたっても金光様のと言う事を正面に出し切らない人があります。これは本当のおかげというかね、徳なんか徳になるはずはありませんよね。そういう意味でそれからその高橋さんから聞かせて頂いて、本当に自分の難儀な事ばかりはいつも電話でお届けするのですけれども、お願させて頂いておかげを頂いてきたが、これではなるほど、本当のおかげにならんと、まあそれこそ自動車の中でしみじみ思わせて頂いた。
 まあいうならば翻然として悟ったという事でもなかろうけれども、それを、思うて帰ったら、その晩から神様からお知らせを頂くようになった。もう私は17日の日にです、この、朝のお届けを終わっておりましたら、終わるまだ、何人か残っておりました。それでまあ、電話の親先生ですかというてから、こう、何か嗚咽しよるか何か、また困った事が起こっただろうかと思いよったら、そしたら、神様からお知らせを頂いた。まあ、いうならば神様を中心にというわけですね。今まではどこまでも自分が中心であったのは、神様を中心という事に、成らせて頂いた、思わせて頂くようにならせて頂いたら、その事を神様が大変喜んで下さる意味のお知らせを頂いた。
 それから、18日の朝またかかってきた。昨日の朝もまた三日続けて私くらいなものにどうしてこんなお知らせを頂くだろうか。そして今までどうにも出来なかった問題がもう好転から好転して行くその、おかげが伴うてもういよいよ有り難いという事なのです。
 ね。これはそうですよ。何十年参ってもただ自分だけが中心と言うような信心ではおかげは受けても本当のスキッとしたおかげにはなりませんね。同時に何十年信心しよってもでです金光様のご信心を頂いておるという事が、もう恥ずかしいとか、いうならばというような人は本当のおかげは受けられるはずはありません。
 昨日も私がある方が参ってきておるところその話を、ちょうどそのお取次ぎをさせて頂いた後でしたから、商売が不振だとこういう。そこでね、あなたの商売、と言うことになるからね、いくら不振不振というてもその都度都度におかげを頂いていきよる。ね。けれどもその、例えばお商売がです、神様を中心と言う事は神様がいうならば、ご主人であると同時に神様が、の、ご商売だとというて、昨日、そこの久保山さんが頂かれておるお知らせを私聞いてもらった。昨日私がまあ三十分あまり一生懸命その事をお話、神様を中心にその話をさせて頂いたのですけれども、本当に神様の知恵を持ってするとそれが一言で何か決まっておるような感じのお知らせを頂いております。
 神様にね、「奉」という字を頂かれた。御初穂の奉る。それに「通じる」と言う事を頂いた。通町の通りと言う字ですね。しかも通じると言う事を道と言う風に頂かれたそうです。あれは通じると言う事は道という字の(?)。これが本当の信心生活だと頂かれた。いわゆる、信心生活というのは、信心をしておるから、信心生活じゃない。ね。毎日毎日参りよるから信心生活ではない。ただ自分が中心であるとかおかげを頂かなければならんかというのはそれは信心生活ではなくて、生活信心だと。
 生活が先ず先にたっておる。そして神様が信心が後からである。本当の信心生活というのは、ね、いうならば、神様が先頭に立っておられて後から、生活の方がついてくるというのでなからなければ本当の信心生活ではないということを、まあ色々な角度からもいわば聞いて頂いたわけなんですけれども。久保山さんが頂いておられるのは、奉ると。ね。その、次に通町の通りというその、字を道と言う風に頂かれた。これが信心生活。素晴らしい事ですねというて話した事でした。
 それを例えて申しますとね、もう例えば毎朝朝の御祈念に参って見えます。ね。ですからもう毎日自分というものを一切神様に奉るのである。自分というものを神様へどうぞ今日はもうお供えをするのですから、自分の体を全身全霊を言わばお供えするのでありますから、もういわばあなたの体であるという事。だからお店ならお店をしておる人がです、ね、○○商店○○商店をです毎日そのままお供えをするのである。ね。そして、今度は、お下がりをお供えする。奉るのですから、お下がりを頂いて久保山さんご飯を炊かせてもらう、畑にでらせてもらう、草を取らせてもらう、もうそこには自分と言うものがさらさらない。神様のお下がりを頂いてご飯炊きをしておる。この体を。神様のお下がりを頂いて草取りをしよりなさる。ね。それを自分がして、どうぞ、都合よく行きますようにというて願うのがいうならば、生活信心である。本当の信心生活というのは神様の一切を神様の御物としてです、ね、自分の全身全霊をもお供えさせてもらう。家もお供えさせてもらう。それを神様から使わせて頂くのである。借らせてもらう。だからもし商売人であるならば借金をそのまま神様にお供えするのである。ね。
 大阪の玉水の湯川先生のいうならばご信心であるところの、ね、例えばどういう大きな社長さんなら社長さんでもです、神様がご主人ならばあなたは番頭さんだと教えられた。家内は女中さんぞ、女中頭ぞとこう教えられた。
 ね。そこへ初めて信心生活が出来る。だから一々ご主人のいうならば命令通り。昨日も申しますように取り上げじゃけん忙しゅうございますから今日はご無礼いたしますと言うことがあるはずがない。ね。もうそれこそ、今日はご祝儀じゃからおまいれんどこう、今日はお葬式じゃから手が放されんという事がなか。
 ね。まず神様が先であり、そして御葬式であり、そして、いうならばご祝儀であり、神様を芯に立ててからの今日は(?)であり、神様が先頭に立たれてからの私であり今日であるという事になってまいります。そういう生活を信心生活。もうそして、このように楽な事は無いという事です。
 ね。同時にです、この生き方ならば必ず神に通じるというか、道という字をね、いうならば天と地に私共の心が通う、天地に通うと。この生き方になれば。それが、今朝の御理解ぞというお知らせを頂いた。奉るというと、通じるというそこから信心生活という事を教えておられます。
 早川茂子さんが例えばそこんところを分からせて頂いた。ね。その前にいうならば一つの準備はちゃんとあっておったような感じ。幼稚園、○○幼稚園、けれども神様の幼稚園だから神様の御紋章をつけるということは分かったわけではないけれども、その前にそんな純粋なところからそういう準備が出来ておってたまたま、高橋さんの車に乗せて車に乗せて頂いて、自分がずっと長年の信心からです、とにかく高橋さんの場合でいうならば御用を先頭にどんな場合でも立てておられるという事です。ね。
 どんなに例えば十三個所ですかね、今お店が。もう、持っておられますから、そりゃあ手を外されんというならもう一日だって外されんのだから。けれども神様をいつも先頭に立てておられる。そういう生き方にならせて頂くようにならせて頂いたと言う話を聞いて、早川(?)ところが毎日毎日、それこそ電話の向こうでね、それこそありがた涙にくれながら、毎日のお届けがある。こういう気持ちにならせて頂いたらこの問題がこう言う風に好転してきた。今日はこういうようなお繰り合わせを頂いた。
 というわけです。ですからやはりですね、どんなに素晴らしいお話を頂いても、やっぱりその、なんていうですかね、神様が分からせて下さる時にはそれこそ、ささばの動きをみてから悟りが開けるといったようなことを申しますね仏教では、蓮の花が開ける音を聞いて心が翻然とするというような意味の事をもうしますね。本当に心が開けると言う事は私はそういうような事だと思うですね。
 毎日毎日ご理解を頂いておっても何十年経ってもやっぱり生活信心しか出来ない人もあるし、たまに参ってきてもです、翻然として本当の信心生活が出来ると言う人もある。
 昨日は、昨日から福岡の麻生さんが毎朝朝のご祈念に参ってくる。昨日のお届けなんです。京染呉服をやっておられます。先日、大黒様の奉祭をさせてもらうた。その大黒様の奉祭をさせて頂いて第一番の商いが親先生なんと、反物一反が八十九万円とにかく百万近くの反物が売れた。もう親先生どんなに考えても親先生の御働き、いうなら大黒様の御働きを頂いておるとは思われませんとその日のちょうど、大変暑かったから冷たいジュースのお供えでもさせて頂いて、以来、子供達も家内達もね、もう、大黒様の奉祭をさせて頂いて親先生親先生というてから子供達までが拝むち。
 だから家の中の雰囲気が大変有り難い事になってきます。そして第一番の商いがそういう商いでしたという。長年呉服屋をしよりますからもう、こげな事はかつて無かったことというお礼お届けがあっております。ね。これはいわゆる大黒様を通してです、いや金光様のご信心はね、まず、これは、一切の物が拝めなければならない。それには自分自身の心がまずは拝めれるようにならなければ一切のものが拝めない。ね。取次ぎ者を拝まなければならんと言われるけれどもやはり、親先生の姿がそこにある、取次ぎ者の姿がそこにあると、ね、そんなに神様ごたる人ばっかりはございませんから中々拝めません。拍手を打つ事は打つけれども、なら心から拝めよるとじゃない。ね。ところがです、ね、それは、少しは我情もあろう、我欲もあろう。大黒様を本当に拝む。おかげを頂いてきた人は皆そうです。
 昨日は秋永先生の奥さんから電話がかかってきた。本当の大黒様、合楽で言う大黒様はあの左手に打出の小槌を持ってござるとが本当なものばいといつか申しておりました。ところが今日はその、左手に持っておる大黒様が見つかったちいうわけなんです。しかもそれが象牙で出来ておる。だからそれを買わせて頂きたいというわけなんですよね。いくら左手に持っておる大黒様を手に入れたところでです、問題はその本当にそれが拝めなければおかげにならんです。交流しなければおかげにならんです。氷水一杯からでも交流すりゃ、ジュース一本ででも交流する。ね。それは象牙で出来たそれこそ熊谷さん大黒様です。ちった、象牙で出来ておる感じの大黒様です。それでもあなた、がばがばおかげを下さる。たまがるようなおかげになってくる。
 だから教祖金光大神が天地金乃神よりおかげを受けた事を話に残しておくとこう仰るい。私自身が金光様のそういうおかげの話を分からせて頂いていうならば、生活信心から信心生活ならせて頂いて本気で取り次ぎ者を拝ませて頂く事の為にまあその時、●④二十数年以前に私が秋永先生の所でお話した事が実は問題になったんです。ね。今まではなにか親先生を拝めれるように思うておった。三井教会で拍手して拝むようになったのは私が式たりを作ったようなものです。拍手を打っておがみよった。ところが段々自分の親先生を拝んでおるというものがです、ね、実際は拝んでいない事が分かってきた。だから本当に拝みたい、拝めれる、それを私は親先生が拝めんようになったというて問題になったです。それが大体問題の始まりでした。これは本当の意味においての親先生が拝みたいと言う求道の心を実は話したのです。ところが大坪さんにゃ親先生がおがめんごとなんなさったげな、今まで拝みよったのはただ形だけであったという事に気が付いて本当の事が出来なかった。本当の拝み方が出来なかった。●④
 それは自分自身の心が本当に拝めれるようにならなければ、私は、取次ぎ者を拝んでおるとは言えないのだと。拝めないのだということ。そういう意味の事ですけれども、金光様のご信心は、ね、とにかくいうならば取次ぎ者を信じなければ、おかげにはならんという事です。
 目に見えるものは信じるけれども目に見えない者は信じない。これは信心があるものとないものの違いです。神様は目に見える事は出来ない。けれども段々信心をさせて頂いて教祖の神様が神様から頂かれた事を話しにしておられる、その話を聞いてなるほどなるほどど合点されて、自分の信心が段々進んでいく。そこからいわゆる目に見えない神様を信じるようになり、ね、本当に人から笑われても神様から笑われてはならんといったような信心が出来てくるようになり、ね、いわゆる神様を信じる生活からです、いよいよ陰日なたのない生活が出来るようになり、いよいよ分からせてもらうようになるその神様を中心に申し上げたね、いうならば、自分の全身全霊を神様に奉らせて頂いて、その信心生活が段々出来るようになり、そこからまんべんなしに、いうならば、ね、足ろうたおかげが段々頂けてくうるようになる。このおかげは頂いたけれどもこのおかげは頂けんというのではなくて、お金のお繰り合わせを頂くけれども健康の送り合わせは頂けないといったような事ではなくてです、私は信心生活というのはそういう足ろうたおかげが頂けて来るようになることだと思う。ね。
 それはそうでしょう。神様が、神様がまんべんなしのおかげを下さる。ところが生活信心であったら、ただお願することだけが信心だと思うておるから、そのお願する事だけはおかげを頂いても他の事はまた改めて願わねばならないとか、ね、願う事はおかげにならんけれども、ね、思いかけないところにおかげが頂けたとか、いうならば、(?)おかげです。けれども信心生活が本当に出来るようになると足ろうてくる。そこでです私の信心ではないですけれども、始めから中々拝めるのじゃないけれども大黒様を通して、いうならば拝む稽古をさせてもらう。交流する一つの手立てとして、氷水をお供えさせてもらおう。ジュースもお供えさせてもらおうという事になるのである。奉ってからの拝む。そこからなんとはなしに、交流してくるのであり、本当にそこから拝めれるようになり、自分自身もです、そういう不思議な働きというものから、目に見えない神様をいよいよ確信する事が出来るようになり、そこから陰日なたのない裏表もない、生活がいわゆる出来るようになり本当の信心生活が出来るようになる。
 ね。これを例えば繰り返し繰り返し言うてもです、お話を聞きよっても翻然としても開けないならば、いくら言うて聞かせても分からんのと同じである。だからそのために精進そのための努力、そのための私共がいうならば素直にならなければいけない。純真にならなければならない。(?)いわばその、幼稚園の園旗をです、八つ波の御紋章に変えさせて頂けれるいうならば神様を先頭に立てた生き方のなのです。自分の事ばかりを願わせて頂いておった事がですそういう事はおいておってもです、ただ今合楽示現活動という意味合いが分かってまいりますとですいよいよ、示現活動に参画させてもろうてですその事が中心になる。
 ね。昨日もある方がお届けをしておりましたが、ある用件で出らせてもろうた。ちーとあがんなさいと言われてお茶を頂きよった。そしてたらもう一生懸命(?)しよったら、自分の用件にゃ忘れてきとる。ね。それでいいのです。自分の用件は忘れておっても神様がちゃんとおかげは下さるです。「神の用を足せば氏子の用は神が足してやる」と仰せられるのですから。そういう働きを受けてはじめて神様、なるほど神様じゃなということが分かってくる、いわゆる神様を信じる生活。ね。そこからいうなば陰日なたのない生活が段々出来てくるようになり、本当の意味合いにおいての、いうなら信心生活が出来るようなる。
 信心生活とはまず一切を神様の前に奉る事である。久保山さんが頂かれておられるのはまず、いうならば自分の体、自分の全身全霊を朝のご祈念に参ってきた時にお供えをしてしまう。今日は神様あなたのよい良うにお使いまわしをくださいという、今日一時ばかり残って草とっていけともし言われたらそうするより他になり。今日は便所掃除をせろとはいとするより他になり。もうあれも終わりました、これも終わりました。ね。そこで神様がその、体のお下がりを頂いてご飯を炊かせてもろうたり、お下がりを頂いて草を採らせて頂くという生きかた。そういう生き方がいわば信心生活だという事であります。ね。どんなに素晴らしい風に頂きましても、そげん、自分のものになっていかなければ本当の信心生活は出来ません。私は教祖の神様が教えてくださっておる事はです私共が本当の意味合いにおいての、信心生活が出来れる話しをあらゆる角度から説いておられると思います。
                                    どうぞ